地名

入間市にあった宿場町「二本木宿」の歴史と現代に残る史跡

江戸時代、八王子千人同心は、八王子から日光東照宮まで出向きの警備の任務にあたっていた。その往来の道として整備されたのが「日光脇往還」であり、道中には旅人が休息や宿泊をするための宿場町がいくつも置かれていた。

埼玉県入間市にかつて存在した「二本木宿」も、その宿場のひとつである。千人同心と呼ばれる武士たちが行き交ったこの地域には、今も江戸の名残が静かに息づいている。

本記事では、二本木宿の歴史や人々の暮らし、そして現代に残る史跡をたどってみる。

二本木宿とは?

千人同心が八王子~日光の往来に利用した道を「日光脇往還」という。東京都昭島市の「拝島宿」から栃木県日光市の「今市宿」まであり、宿場の数は20ヶ所を超える。二本木宿は拝島宿から数えて3番目の宿場だ。

二本木村に造成された宿場なので「二本木宿」と呼ばれていた。現在でもその呼び名が残っており、このエリアのことを埼玉県入間市二本木または東京都瑞穂町二本木と呼ぶ。

 

二本木が埼玉県と東京都に分裂した理由はコチラ

入間市にある「二本木」という地域の変遷(移り変わり)

 

周辺の村と比較して、二本木村は比較的新しく誕生した村だったようだ。その証拠に中世以前の板碑の数が極端に少なく、わずか3個しかない。これは、江戸時代より前に人があまりいなかった証拠といえる。

日光脇往還の宿場に選ばれたことにより、急速に発展していった村といえるだろう。

八王子千人同心は何者?

二本木宿は八王子千人同心の宿場町として発展したが、そもそも八王子千人同心とは何なのだろうか。

八王子千人同心は、もともと甲斐・信濃の武田家に仕えていた家臣団をルーツとしている。織田信長が本能寺の変で倒れた後、甲斐国は徳川家康の領地となった。

家康は旧武田家の家臣たち(小人頭)の戦闘力と忠誠心を評価し、甲州の国境警備に従事させたことが、のちに千人同心の基礎となった。

1590年、豊臣秀吉が小田原の後北条氏を攻め、八王子城と小田原城は降伏した。その後、関東は家康の領地となる。

しかし、八王子城周辺の治安は不安定であったため、家康は小人頭たちに警備を命じ、治安を維持させた。治安が安定したころ、現在の八王子千人町に屋敷が与えられ、人数も増加。1624年頃から「千人同心」と呼ばれるようになった。

この配置には、おそらく政治的意図もあったと考えられる。旧武田勢は戦闘力が高く結束力も強いため、江戸の近くに置けば潜在的な反乱の危険があった。

そこで江戸から少し離れた八王子に配置することで、江戸防衛の外郭としての役割を果たしつつ、政治的リスクを抑える狙いがあったのだろう。

さらに千人同心は、日光東照宮の警備、いわゆる「火の番」も命じられた。片道150kmの往復にかかる宿泊や食糧、装備などの出費は、忠誠を保たせる一方で経済的余力を削ぐ仕組みとして機能したと考えられる。

加えて、日光脇往還沿いの宿場町や商人にお金を使うことで、街道沿いの経済を潤す副次的効果もあった。つまり幕府は、忠誠管理と反乱防止に加え、経済活性化までを計算した巧妙な制度を作っていたのである。

八王子千人同心の配置と火の番は、旧武田家臣の力を抑えつつ、江戸防衛と地方経済の循環を同時に実現する、幕府の多層的統治戦略の典型例といえる。

二本木宿の誕生と発展の背景

二本木村が公式な文書に登場するのは、1590年、豊臣軍から「二本木村百姓中」宛てに送られた手紙が最初である。それ以前にも村は存在していたと考えられるが、歴史的に確認できる最古の記録はこの時期だ。

二本木村には「武田の残党が移り住んだ」という説がある。つまり、戦国時代の終わりごろ、武田氏の家臣たちが戦乱を逃れてこの地に落ち延び、定住したと伝えられている。

入間市の中でも二本木地区だけが板碑(いたび)が少なく、中世の資料がほとんど残っていないことも、この説を裏づける一因とされている。

その後、日光脇往還が整備され、二本木は宿継場(しゅくつぎば)として発展していった。人や物の往来が増え、街道沿いには次第に民家が立ち並び、最盛期には170戸を超えるほどにまでになった。

休憩や宿泊の施設が整うと、大山参りの経路としても利用されるようになり、旅人でにぎわう宿場町としての役割を果たした。

また、入間市一帯は土地がやせていたため、比較的育ちやすい桑の木を栽培し、養蚕が盛んに行われていた。そのため、繭や絹を扱う織物関係者の往来も多く、二本木は交通と産業の要地として発展していったのである。

現代に残る二本木宿の史跡

現代の入間市二本木は、当時の賑わいを想像させるような建造物は残っていない。しかし、よく観察すると、わずかに当時の名残を感じさせる痕跡がある。

地蔵宿

延命地蔵

旧川越街道(青梅街道)沿いにある延命地蔵。左の道は伊奈街道と呼ばれ、五日市方面へと通じる。二本木村の古地図には、羽村道とも記載されている。

上宿

道標

1744年に造られた、入間市最古の道標。上宿の人たちが交通の安全を願ってたてたものだ。

 

この道標の詳細についてはコチラ

二本木上宿の道標|入間市内最古・1744年(延享元年)に造られた

 

馬頭観音・秋葉山灯籠

元は道標と同じ交差点にあったといわれている、馬道観音と秋葉山灯籠。

中宿

旗本名主の家

二本木村は複数の旗本が入り組んで治めていた。コチラは長田氏の名主を務めたとされる家。

秋葉山灯籠

中宿の秋葉山灯籠。

下宿

秋葉山灯籠(高札場)

下宿の秋葉山灯籠。近年、新しく作り直された。以前のモノは木製で、高札場も一緒に立っていた気がする・・・。

屋号

屋号については、私の世代だとほとんどわからなくなってしまった。調べたところ、「床場」という屋号だけは記憶にある。漢字で書かれているので不確かではあるが、おそらくこれは「トコバ」と読む。

私が子供の頃(1980年代)、近所に「トコバ」と呼ばれる駄菓子屋があった。なぜそんな名前なのか気にも留めることなく、当たり前のように「トコバ」と呼んでいたが、これが屋号の名残だったのだろう。

ネットで調べが限りだが、髪結い(床屋)をしている店を「床場」と呼ぶらしい。昔の屋号がそのまま継承され、駄菓子屋になっても「トコバ」と呼ばれていたわけだ。

おそらく私の祖父母世代なら、普通に使われていたと思う。

まとめ

かつて千人同心や旅人でにぎわった二本木宿の姿はほとんど失われてしまったが、地蔵や道標、屋号の名残など、わずかな痕跡をたどることで、江戸時代の人々の暮らしや営みを今に感じることができる。

二本木宿は、歴史の記憶を静かに伝え続ける場所なのだ。

参考サイト・書籍など

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