地名

狭山丘陵は古多摩川が削り残した武蔵野台地に浮かぶ「緑の島」

私が子どもの頃から、その「山」は当たり前のようにそこに存在していた。学校に通う日々では、毎日の通学でその「山」を越えなければならなかった。

急勾配のため、たとえ10代の若さがあっても、自転車で登るのはかなり大変だったことをよく覚えている。

そして、私が「山」だと思って過ごしてきたのが、まさに狭山丘陵である。というわけで今回は、この狭山丘陵の成り立ちから現在まで、その自然や文化の特徴について改めて調べてみた。

狭山丘陵とは?

東京と埼玉の県境に広がる「狭山丘陵」は、武蔵野台地の西端に位置する丘陵地帯だ。

東西の長さは約11km、南北の長さは約4km、総面積はおよそ3,500ヘクタールに及び、標高の最高地点は194mに達する。

都市に近い立地でありながら、豊かな自然環境が今も多くが残されており、「緑の島」と称して保全活動が実施されている。

狭山丘陵の成り立ち

狭山丘陵の成り立ちは3段階に分けられる。

  1. 関東山地の形成
  2. 古多摩川が削る
  3. 狭山丘陵だけ削り残す

順序立てて説明していく。

関東山地は海底が作り出した「栄養豊富な山」

狭山丘陵の西側には関東山地がそびえ、その形成には日本列島を構成する「大陸プレート」と「海洋プレート」の動きが深く関わっている。

海洋プレートは大陸プレートの下に潜り込みながら移動し、その過程で大陸プレートが海洋プレートの表面を削り取って堆積物が次々と溜まっていく。この堆積物が隆起することで、現在の関東山地が形作られた。

太古の海底には、大量のプランクトンの死骸やサンゴの化石(石灰岩)が含まれており、栄養分が豊富だった。

これらが大陸プレートの砂や粘土と混ざり合うことで、通気性や浸透性、保水性に優れた土壌が形成され、植物の育成に最適な環境が生まれることになる。

江戸時代には、関東山地の栄養豊富な森林から得られた木材が「西川材」と呼ばれていた。これは「江戸(東京)の西の川からくる木材」という意味で、地域の林業の発展を支える重要な資源となっていた。

武蔵野台地は古多摩川が作り出した「巨大な扇状地」

武蔵野台地の範囲

上の地図の赤線は入間川、青線は荒川、緑線は多摩川を示しており、それらに囲まれた範囲を武蔵野台地という。この台地は青梅を扇頂とした巨大な扇状地で、古多摩川が削りだしたものである。

現在の多摩川は武蔵野台地の南を流れているが、古くは中央や北側に流れていたこともあり、年代ごとに特定の範囲を削り取って台地を形成していった。そのため、武蔵野台地にはハケ(崖)といわれる段丘が数多く確認されている。

私の住む入間市は武蔵野台地の中にある金子台というエリアで、「オッパケの坂」という急勾配の道がある。これは古多摩川が削りだした「大きなハケ」が名前の由来となっている。

オッパケの坂

 

入間市にあるオッパケの坂についてはコチラ

入間市二本木にある「オッパケの坂」は数万年前からある?

 

武蔵野台地の形成には川による扇状地が関わっているため、加治丘陵や草花丘陵などは関東山地と繋がっており、山から指が伸びたような形に見える。(赤い矢印)

孤立する狭山丘陵

ところが不思議なことに、狭山丘陵(黄色い丸)だけはどこの山脈とも繋がっておらず、単体として丘陵を形成しているのである。

狭山丘陵が「緑の島」と呼ばれる理由

狭山丘陵が「緑の島」といわれるのは、都市化が進む武蔵野台地の中で、豊かな自然がまとまって残っているだけでなく、地形的にも周囲より高く残った「削り残しの丘」であるためだといわれている。

かつての多摩川は現在より北側を流れており、長い時間をかけて武蔵野台地を削りながら南へ流路を変えていった。

古多摩川の跡地を流れる不老川

その際、まわりのやわらかい火山灰層(関東ローム層)は削られたが、狭山丘陵の地層は硬く、川の力でも削りきれなかったために高く残ったとされる。

狭山丘陵の地下にある砂礫層(れきそう)は、多摩川がつくったものではなく、もっと古い時代に形成されたものである。

地質調査によると、狭山丘陵は「上総層群」と呼ばれる数十万〜100万年前の古い堆積層の上に成り立っている。

後に関東地方全体がゆっくり隆起し、狭山丘陵の部分が相対的に高くなった。つまり、狭山丘陵の砂礫層は「昔の川が運んだ堆積物」らしい。

一方で、武蔵野台地の砂礫層は多摩川などによって比較的新しい時代につくられた堆積物で、その上に火山灰が積もって関東ローム層となった。したがって、同じ砂礫層でも狭山丘陵と武蔵野台地では「できた時代」も「つくられ方」も異なる。

狭山丘陵が高く残ったのは、古い上総層群が基盤として存在し、地質的に硬かったため、のちの多摩川の浸食を受けにくかったからである。

したがって、「多摩川が削り残した」という表現は地形的には正しいが、地質学的には「もともと古い堆積層がそこにあり、かたかったため削られずに残った」と説明するのが正確である。

狭山丘陵は、自然と地形、そして長い地質の歴史が重なって生まれた「緑の島」なのである。

狭山丘陵が生んだ豊かな自然と人々の暮らし

狭山丘陵の広い森林は雨水を一時的に貯め、地下にしみ込ませることで地下水や湖の水量を安定させる働きがある。特に狭山湖や多摩湖といった地域の水源の補給に寄与している。

このような機能は「緑のダム」と呼ばれ、人工ダムと同様に地域の水循環を調整する自然の装置となる。

さらに、狭山丘陵は生態系の宝庫でもある。多様な動植物が生息する森や池は、自然観察や学習の場として利用され、学校教育や市民活動における環境教育に活用されている。

ハイキングやウォーキングなどのレクリエーションの場としても親しまれ、地域住民の心理的・身体的健康に役立っている。

また、狭山丘陵の周辺では「狭山茶」という茶の栽培が盛んになった。江戸時代から栽培され、香り高くコクのある茶葉は、江戸や東京で人気を博している。

狭山丘陵のすそ野に広がる武蔵野台地は痩せた土地だが、水はけが良いため、茶の栽培に適した環境を提供している。

このように、狭山丘陵は水源の安定、自然観察やレクリエーション、狭山茶の栽培など、地域に暮らす人々に多面的な恩恵をもたらしている。

自然と文化の両方が共存することで、都市近郊にありながら豊かで安全な生活環境を提供する、まさに「自然と人をつなぐ装置」として機能しているのである。

参考サイト・書籍など

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