昔から「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめをさす」と言われており、日本三大銘茶といえば静岡茶、宇治茶、狭山茶のことを指す。名誉あることに、私の住む自治体は狭山茶の生産量がNo.1だ。
通勤に使っている道路は「茶どころ通り」と呼ばれている。道の左右には広大な茶畑が広がっており、見応えのある風景だ。
今はやっていないが、祖父の代までは狭山茶を栽培する側でもあった。そんな私が住む自治体というのが・・・
入間市である。
・・・狭山市ではない。入間市だ。
狭山茶といえば狭山市。もしその通りだったら、どれだけわかりやすいことだろうか。皆がすんなり受け入れられる。だが、入間市と狭山市の関係は複雑で、そう簡単には説明できない。
そこで今回は、狭山茶と入間市と狭山市が、なぜこじれているのかを調べてみることにした。
「狭山」とは狭山丘陵のこと
まず最初にハッキリさせておくと、「狭山」という名称は狭山丘陵があるからそう呼ばれている。だから、狭山丘陵を中心とした周囲のエリアが「狭山」である。これは間違いない大前提だろう。
そして、狭山丘陵を取り囲むように周辺には自治体がある。次の地図で赤丸をした所を見てほしい。

入間市、瑞穂町、武蔵村山市、東大和市、東村山市、所沢市。これらのエリアは「狭山」と呼んで、全く違和感のない地域だといえる。
その証拠に各自治体には、神社や池、公園など「狭山」という名の付いた古くからの建造物があちこちに存在している。
狭山丘陵の成り立ちについてはコチラ
⇒狭山丘陵は古多摩川が削り残した武蔵野台地に浮かぶ「緑の島」
狭山茶の生産地はどこ?
続いて、この記事のタイトルにも書いた「狭山茶」だ。狭山茶は狭山の代名詞といっても過言ではない。
まず、狭山茶を広めたのは誰かというと、吉川温恭と村野盛政の2名である。吉川氏は1767年に宮寺西久保に生まれ、村野氏は1764年に入間郡坊村に生まれた。
それぞれを現在の地名でいうと、入間市と瑞穂町が該当する。両名は川越茶を復活させるため、1802年ごろから狭山丘陵で茶の栽培と製造に取り組み始めた。これが今ある狭山茶の原点といわれている。
狭山茶の誕生とブランド化についてはコチラ
⇒狭山茶は偶然の発見?|吉川温恭による栽培の取り組みとブランド化
それから220年ほど時が進んだ2020年。埼玉県内にある493ヘクタールの茶の栽培面積のうち、50%を入間市が占めることとなる。
2位は所沢市で、3位の狭山市は入間市の25%にも届かない。入間市と所沢市は狭山丘陵があるエリアなので、狭山茶発祥の地だ。当然といえば当然の結果である。
現在では茶の木すら見かけなくなった東村山市でも、昔は狭山茶が作られていた。志村けんも東村山音頭で「東村山 庭先ゃ多摩湖 狭山茶どころ 人情が厚い」と唄っていた。
東村山市は狭山丘陵にあって、そこでお茶を栽培していたのだから、狭山茶と呼んで不思議に感じることはない。
東大和市では「東京狭山茶」というブランドで狭山茶が販売されている。狭山エリアで収穫したお茶なので、ケチをつける点は一つもない。
ここまで現状を書けば、狭山茶ブランドがどこの自治体にあるのかは明白だろう。しかし、狭山市と狭山茶という名称が強烈にリンクしているため、狭山茶=狭山市と思ってしまう人がいるのも頷ける。
入間市にある狭山という名称
ここからは、入間市と狭山市の複雑な関係について調べてみた。入間市なのに狭山、狭山市なのに入間と名の付く学校や神社、施設などがいくつも存在しているのだ。では先に入間市にある狭山という名称から紹介する。
入間市立狭山小学校
まずは代表格の入間市立狭山小学校だ。このテーマのコンテンツには必ずといっていいほど登場するビッグネーム。「入間市にあるのに何で狭山小学校なの?」と言われ続ける宿命を背負った学校だ。
入間市狭山台・狭山ケ原
狭山小学校の近くには入間市狭山台、入間市狭山ケ原という地区がある。工場が立ち並んでおり、それぞれ狭山台工業団地、武蔵工業団地となっている。
狭山飛行場
狭山台工業団地と武蔵工業団地の区画は、1933~1946年の間に飛行場として活用されていた。その名は「陸軍航空士官学校狭山飛行場」である。
狭山飛行場についてはコチラ
⇒入間市にあった「陸軍航空士官学校狭山飛行場」の遺跡を探してみた
狭山ゴルフクラブ
狭山台工業団地の隣(西側)には狭山ゴルフ・クラブがある。
元狭山村
現在はなくなってしまったが、ここまで紹介してきたエリア周辺は元狭山村と呼ばれていた。1889~1958年まであった村である。
狭山ヶ丘高等学校・付属中学校
狭山ヶ丘高等学校・付属中学校は、入間市の下藤沢にある中高一貫教育の私立学校だ。生徒数が1000人を超えるかなり大きな学校である。先日、文化祭に行ってきたが、クラス数が多くて驚いた。
この学校は入間市の中でも狭山市寄りに位置している。そのため、地図で確認してみると狭山丘陵からは離れており、あまり狭山の要素がない。だが不思議なことに、狭山の名称が取り入れられている。
狭山市に近い入間市の狭山ヶ丘高校・・・頭がこんがらがりそうだ。
近隣自治体にある狭山という名称
狭山という名称は狭山丘陵の周りにいくつも残されている。今度は入間市以外の自治体を紹介していく。
元狭山神社(瑞穂町)
現在の瑞穂町にある元狭山神社。元狭山村にあった神社だが、瑞穂町と武蔵町への分割編入によって村は消滅し、神社だけが瑞穂町に残った。
狭山池・狭山神社(瑞穂町)
瑞穂町にある狭山池と狭山神社。狭山神社は狭山丘陵の最西端で、そのすぐ西側に狭山池がある。狭山池は狭山丘陵の伏流水だといわれている。狭山池の伏流水は、入間市に流れる不老川の水源と考えられている。
不老川についてはコチラ
狭山神社にある狭山茶場之碑についてはコチラ
⇒狭山茶に関する石碑・墓石は狭山丘陵の山麓に集中して建碑されていた
狭山湖(所沢市)
所沢市にある山口貯水池は、通称:狭山湖と呼ばれている。建設されたのは1934年。埼玉県にある貯水池だが、管理は東京水道局なので、東京都への上水道として利用されている。
西武狭山線(所沢市)
西武狭山線という名前だが、1ミリも狭山市は通っていない。全線が所沢市である。開業は1929年だ。
狭山公園(東村山市・東大和市)
東京都東村山市と東大和市にまたがる都立公園。開園は1937年である。
狭山市が市制施行したのは1954年だった。これまでに紹介した「狭山」の名称がつく場所は、ほとんどがそれ以前に存在している。
昔から、狭山丘陵を含む周囲が「狭山」と呼ばれていたということだ。残念ながら、狭山市はそのエリアからは遠い。
狭山市にある入間という名称
こんどは逆に、狭山市にあるのに入間の名がつくところを調べてみた。
入間基地
こちらの代表格はなんといっても入間基地だろう。ハッキリ過ぎるほど、入間の基地と書かれている。入間市が地元の私でも、30代くらいまで入間市にあるんだと思っていた。
しかし、入間基地の敷地は7~8割が狭山市にある。住所地も埼玉県狭山市稲荷山2丁目3となっており、どうみても狭山市にある基地といえる。
狭山市立入間小学校・中学校(閉校)
2011年に閉校となっているが、南入曽に狭山市立入間小学校があった。入間市立狭山小学校と比較して、あまりにも完璧で対照的なネーミングといえる。
同じように狭山市立入間中学校もあったが、2015年に閉校となっている。
狭山市立入間野小学校
狭山市立入間小学校の閉校に伴い、児童たちは近隣にある狭山市立入間野小学校に編入している。「野」が追加されただけで、ぼぼ同じ名称の小学校だ。
入間川町・入間村
狭山市は1954年に誕生しているが、その時に 入間郡入間川町・入間村を含む6カ所の町村が合併している。なんと「入間」の名称を掲げる自治体が2つもあったのだ。
ちなみに入間市誕生時に、入間の名称を含む町村の合併はなかった。「入間」の名称を継承するに相応しいのは、現・狭山市に軍配があがりそうだ。
神社・公園
狭山市にある神社や公園には、入間の名称が含まれるモノが残されている。入間野神社、入間川大国神社、入間川神社、入間川小学校跡地公園など。
複雑な町村合併の変遷
ここまでこじてれしまった原因として、複雑な町村合併があげられる。両自治体がどのような変遷を辿ってきたのか、年代ごとに見てみよう。
■1954年:入間郡入間川町、入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村が合併して狭山市となる
■1956年:豊岡町、金子村、宮寺村、藤沢村、西武町の一部(旧東金子村)が合併し武蔵町となる
■1958年:武蔵町が元狭山村の一部を合併
元狭山村分断のショックについてはコチラ
■1966年:武蔵町が入間市になる
町村合併促進議会が考えていた案では、豊岡町、金子村、藤沢村、東金子村、入間郡入間川町、入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村を合併して狭山市とするつもりだったらしい。
現在の自治体でいうと、狭山市と入間市(二本木、宮寺を除く)をほぼ網羅している。
ところが、狭山市の合併案が出てからわずか5ヵ月という異例のスピードで、6町村が先に合併して狭山市になってしまったのだ。本当は現・入間市も含めて狭山市とする予定だったはずなのに。
これによって後に誕生した入間市が、入間野エリアということでその名を使うこととなった。入間川町も入間村もないにもかかわらず・・・。
最初の案の通り全てまとめて「狭山市」にしていれば、今のようにややこしい事態は起こらなかったということだ。
入間市と狭山市の合併・・・ならず
そんな折、入間市と狭山市の合併案が浮上し、協議会が設置された。2006年1月1日に新市名「狭山市」とする事として話を進めたようだ。もし上手くいけば、絡まってしまった紐がキレイにほどける。
しかし、2025年の市民アンケートによって反対多数となり破断となってしまった。
2009年には、狭山市にある「入間地区」は名称が紛らわしいということで「入曽地区」に改名。それに伴い、JA入間野は入間支店を入曽支店に。
2011年には狭山市立入間小学校が閉校、2015年には狭山市立入間中学校が閉校。2025年にはAコープ入間店が閉業している。狭山市にある「入間」という名称は、現在進行形で消されている・・・。
2022年には、入間市市長が「おいしい狭山茶大好き条例」なるモノを制定した。そこには「狭山茶の誕生の地は入間市、最大の主産地も入間市、とにかく狭山茶は入間市なんだ!」的なことが書かれており、狭山市をけん制するかのような内容の条例となっている。
お隣同士の自治体だが、仲睦まじくとはいかないようだ。
参考サイト・書籍など