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狭山茶は偶然の発見?|吉川温恭による栽培の取り組みとブランド化

茶の歴史は古く、紀元前2700年ごろには中国での記録が存在している。茶葉に含まれるカテキンやカフェインに、薬や宗教的な価値があったのだろう。

さて、現在の日本においてお茶といえば宇治茶、静岡茶、狭山茶の三大銘茶がある。私の住む自治体「入間市」は、狭山茶発祥の地とされており、埼玉県内での生産量もNo.1だ。

私が生まれた時から茶の町だった入間市だが、何がキッカケで生産が開始されたのか?今回はその点について調べてみたいと思う。

日本のお茶は寺から始まった

日本にお茶が伝来してきたのは、およそ800年頃とされている。その人物というのが、天台宗(比叡山延暦寺)の開祖「最澄」だ。

彼は中国に渡って本場の仏教を学んだ。そして日本に帰国する際、お茶の種を持ち帰ったのだ。帰国後は現在の滋賀県で茶の栽培を始め、日吉茶園として日本茶発祥の地となった。

この時代のお茶は、宗教や薬としての意味合いが強くて高級品だった。そのため、飲めるのはごく一部の人だけで、庶民に広まることはなかったという。

 

そんな茶を日本に広めた人物が、またしても日本仏教の偉人「栄西」である。一休さんでおなじみ臨済宗の開祖だ。やはり宗教的な意味合いは強かったようだが、武士や禅僧に抹茶を飲む習慣を根付かせた。

日本初とされるお茶の書籍「喫茶養生記」を書いたのも栄西である。

武蔵河越茶・慈光茶の衰退

その後も茶を飲む習慣は広がっていき、関東では武蔵川越茶や慈光茶というブランドが確立されていった。やはりバックには仏教の存在があったのだが、戦国時代の内乱によって寺が焼け落ちたことにより衰退していった。

茶のブランドは消えてしまったが、茶の木は野生化して残っており、番茶などに利用されていたようだ。

吉川温恭が畑で茶の木を発見?

時代は流れて1802年、現在の埼玉県入間市二本木にて、宮大工の吉川温恭は家の近くで妻と畑仕事をしていた。一休みしていたところ、いつから生えていたのかわからない茶の木が生えているのを発見。妻が葉を摘んで自宅に持ち帰ったそうだ。

(おそらくこの茶の木は、戦国時代に衰退してしまった武蔵川越茶や慈光茶が自生していたものだろう。)

家の囲炉裏に釜をかけて茶をかき混ぜたところ、翌朝にはお茶ができあがったという。隣村(現・瑞穂町)に住む村野盛政が遊びに来たので、薬缶で煎じた茶を飲ませてみた。

すると、村野盛政はこの茶の美味しさに感動し、両名は茶の栽培に取り組むこととなったのだ。

茶栽培に適した金子台

さて、ここからは入間市の土地について少し触れていく。まず、入間市は武蔵野台地という広大な台地の北西部に位置している。

武蔵野台地の範囲

線で囲った範囲が武蔵野台地、入間市は赤線あたりにある。武蔵野台地はいくつか区分けされており、入間市の中心には金子台いう台地がある。その台地を狭山丘陵と加治丘陵で挟んだような配置だ。

オレンジの点線が入間市、狭山茶栽培の中心地は金子台だ。

このあたりは何万年も前に古多摩川が流れていたので、地中には礫層がある。その礫層の上に関東ローム層が乗っかっているような状態だ。水はけは良いが土地は瘦せている。

つまり、稲作などの水田には不向きな土地というわけだ。村野盛政の子である矩邦の墓石には、次のように刻まれている。

 

「狭山は地薄くして、粗民の食、力むるに於いてしこうしても足らず」

 

米が主食の日本人にとって、稲作ができなのは致命的といえる。現代のように飽食の時代ではないので、畑仕事に精を出しても日々の食事に事欠く生活だったようだ。しかし、幸運にも茶の栽培には適した土地だった。

そこに目をつけた吉川・村野の2名が「江戸にて高値で取引されている宇治茶」と同じように、狭山エリアでも茶を特産品として現金に換え、村の生活を向上させようと試みたのである。

指田半右衛門も狭山茶の功労者

狭山茶復興の立役者としては、吉川温恭と村野盛政の名前が有名だ。しかし、同時期に現・青梅市今井で指田半右衛門という人物も、茶の栽培を始めていた。この人はかなりストイックな経歴を持っている。

まず、入間郡の吉川作右衛門が京都の宇治茶の製法を伝来したと聞いたら、すぐさま付き従って3年も宇治製法を学んだ。それでも飽き足らず、妻子を残して本場の宇治茶を学ぶために西国へ旅立った。しかも、巡礼者の姿に変装して。

さらに、すぐに情報が手に入らないとかわると、知的障害者のふりをして1年間もその場に留まろうと試みた。幸いにもお茶農家の下働きをすることになり、4年もの歳月をかけて宇治茶の製法を習得したようだ。

当時の交通や町のインフラを考えると、かなり過酷な環境を生き抜いていたと考えられる。

江戸での人気に火が付く

1816年、吉川・村野の両名は、江戸日本橋の茶商「山本山」に、自分たちが製造したお茶を送った。現在でも有名なあの山本山だ。

当時5代目だった山本嘉兵衛徳潤は、このお茶の美味しさに感動して、販路拡大に協力することになった。

1819年には江戸の茶問屋たちとの取引契約を締結した。価格は宇治茶と同等だったので、とても評価が高かったようである。

「狭山茶」というブランドへ

売り出し当初は「狭山で作った宇治製茶」という位置づけだったので、狭山茶というブランドはなかった。指田の茶も狭山茶としてではなく、ほか有名ブランド茶に混ぜて、ブレンド用として利用されていた。

1832年になると「重闢茶場碑」という石碑が建てられ、そこで「狭山茶」という名称が初めて登場する。当初、賛同者の中に指田の名前はなかったが、あとから追加で刻まれたようだ。茶の復興は狭山だと認めた形だろう。

現在では栽培エリアが拡大して、狭山市でも狭山茶が栽培されている。主に埼玉県で作られたお茶は「狭山茶」と呼ばれ、確固たるブランド化に成功している。

 

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参考サイト・書籍など

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