石造物

狭山茶に関する石碑が狭山丘陵北麓と加治丘陵南麓に集中している理由

戦国の乱世で衰退してしまった河越茶は、1800年ごろから狭山茶として生まれ変わって復興してきた。その中心になったエリアは、狭山丘陵北麓(狭山)と加治丘陵南麓(根通り)である。

最終的には狭山の名が残ったが、どちらのエリアもお互いをライバル視して切磋琢磨した結果として、狭山茶という統一ブランドができあがった。

当時の関係性があったためか、狭山丘陵北麓(狭山)と加治丘陵南麓(根通り)のそれぞれに、茶場碑が3個ずつ建碑されている。今回はそれらの石碑と復興立役者の墓石を調べてみた。

 

狭山丘陵の成り立ちについてはコチラ

狭山丘陵は古多摩川が削り残した武蔵野台地に浮かぶ「緑の島」

 

重闢茶場碑

  • 名称:重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)
  • 撰文:1832年
  • 建碑:1836年
  • 場所:出雲祝神社(埼玉県入間市)
  • 題:松平定常
  • 文:林煒
  • 筆:巻菱湖
  • 字彫:窪世昌

 

狭山茶のルーツといわれる河越茶は、中世の時代の武蔵国でブランド化されていた。しかし、戦国の内乱で寺が焼け落ちたことによって衰退。それから長らく、茶は栽培されなくなってしまった。

1800年ごろになり、偶然にも二本木村の吉川氏が畑で茶の木を発見したことから、隣村の村野氏とともに栽培を再開。江戸の茶商である山本氏と協力して、狭山エリアで茶の生産を復興させた。

 

狭山エリアがどこなのかはコチラ

狭山茶はどこの自治体にあるのか?|入間市と狭山市の奇妙な関係

 

茶商との取引を開始してから10年以上が経過。茶業が軌道に乗った1832年に建てられた茶場碑である。河越が途絶えて数百年後、吉川氏、村野氏、山本氏の3名が狭山丘陵で武蔵国の銘茶を復興したと記されている。

 

狭山茶の復興からブランド化まではコチラ

狭山茶は偶然の発見?|吉川温恭による栽培の取り組みとブランド化

 

茶場後碑

  • 名称:茶場後碑(ちゃじょうこうひ)
  • 建碑:1876年
  • 場所:出雲祝神社(埼玉県入間市)
  • 題:萩原秋巌
  • 文:萩原秋巌
  • 筆:中村正直
  • 字彫:廣瀬群鶴

 

狭山茶の生産再開から約40年後、重闢茶場碑の隣に建てられた石碑。

狭山茶は「関東のお茶」という地位を確立させた。以前は宇治茶だけが名を欲するがままにしていたが、今の狭山茶はそれと同等のブランドになっている。

開国による貿易が始まったこともあり、海外へ輸出されるようになって、評判はどんどん上がっていった。全ては先人たちの努力のおかげ。子孫は怠けずに頑張り、事業を拡大していかなければならない。

狭山茶のブランド確立、今後も頑張っていかなければならない、といった内容が刻まれている。

北狭山茶場碑

  • 名称:北狭山茶場碑
  • 撰文:1887年
  • 建碑:1936年
  • 場所:龍円寺(埼玉県入間市)
  • 題:清浦圭吾
  • 文:重野安繹
  • 筆:松本英一
  • 字彫:笠井敬三

 

建碑は1936年となっているが、碑に刻む文章は1887年には完成していた。同じ時期に日本茶の輸出量が減ってしまったことで、建碑費用が足りなくなってしまったためである。

この碑は加治丘陵の南麓にあり、根通り茶を意識して建てられたものだ。重闢茶場碑と茶場後碑に刻印されている「狭山茶」に正統性があるとしつつ、その北にある根通り茶の功績を称えるため北狭山茶場碑という名前になった。

北の根通り茶と南の狭山茶はライバル関係にあり、お互いに切磋琢磨したことによって、どちらも高品質のお茶に成長。今では統一ブランド「狭山茶」になったことを示している。

北狭山茶場碑入り道

  • 名称:北狭山茶場碑入り道
  • 場所:根通り新久交差点⇒いちょう通りと茶どころ通り交差点(埼玉県入間市)

 

北狭山茶場碑が建てられた時、その入口への道しるべとして建てられた道標。最初は根通り新久の交差点付近に建てられたが、道路の拡張工事のため1984年に、いちょう通りと茶どころ通りの交差点に移動された。

高さが日本一(4.1m)として、1986年にギネス登録となる。

狭山茶場碑

  • 名称:狭山茶場碑
  • 撰文:1857年
  • 建碑:1971年
  • 場所:松龍山豊泉寺(埼玉県入間市)
  • 文:佐藤一斎

 

撰文は1857年だったようだが建碑には至らず。1971年になって地元の有志達によって建てられた。狭山茶の復興の由来について記されている。

狭山製茶先哲記念標

  • 名称:狭山製茶先哲記念標(さやませいちゃせんてつきねんひょう)
  • 建碑:1880年
  • 場所:東京都青梅市

 

狭山茶を復興させたのは二本木村の吉川氏、坊村の村野氏とされている。だが、北狭山茶場碑でも説明したように、同時期に根通りでも茶栽培が本格化していた。その根通り茶の実力者だったのが指田氏である。

指田氏も1821年には江戸の茶商に、根通りで栽培された茶を出荷していた。そのため、吉川氏・村野氏とはライバルで、お互いに高めあうような関係だったようだ。

この先哲記念標は、青梅を中心として瑞穂や入間など150名ほどの茶業家から賛同を得て建碑された。根通り茶の礎を築いた指田氏の功績を称えている。

重闢茶場碑が建碑されたときに指田氏の名前は刻印されていなかった。しかし、あとから追記されたので、最終的には狭山茶のブランドを認めたのだろう。

狭山茶場之碑

  • 名称:狭山茶場之碑
  • 建碑:1878年
  • 場所:狭山神社(東京都瑞穂町)
  • 題:勝海舟

 

1589年の横浜開港で日本茶が輸出の主力となる中、箱根ヶ崎の村山氏は狭山丘陵南麓で茶の栽培を始めた。しかし他の村は茶づくりに消極的で、八王子などが主導してしまったため「狭山茶」の名が薄れた。

村山氏はこれを嘆き、狭山茶場を顕彰し茶業を盛んにするため碑を建てた。彼は生糸が粗製乱造で信用を失った例を挙げ、茶でも同じ過ちを繰り返さぬよう品質向上を訴えた。

村野矩邦墓碑銘

  • 名称:村野矩邦墓碑銘
  • 場所:瑞穂町

 

村野盛政の墓とその子・矩邦(のりくに)の墓は、隣同士で並んでいる。盛政の墓には狭山茶を復興したことについては刻まれていない。

しかし、矩邦の墓石には「狭山は地薄くして、粗民の食、力むるに於いてしこうしても足らず」と刻まれている。

狭山の地は痩せていて食べるのにも困窮したが、父盛政が狭山茶を復興させ、子矩邦が引き継いで発展させたという内容である。

吉川温恭墓碑

  • 名称:吉川温恭墓碑
  • 場所:西久保観音堂裏

 

西久保観音の裏にある西久保共同墓地に吉川温恭氏の墓がある。重闢茶場碑が建てられている出雲祝神社の隣だ。墓石の左側には「狭山製茶祖人 吉川兵庫温恭」と刻まれている。

 

参考サイト・書籍など

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