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たった14年?|陸軍航空士官学校狭山飛行場の建設~開墾

埼玉県の入間市にあった陸軍航空士官学校狭山飛行場。存在したのは1933~1946年までのわずか14年ほど。

たったそれだけの期間なのに、どんな経緯だったのかを調べてみたら、とても複雑で頭がこんがらがってしまった。

3冊の書籍とWebの情報をもとに整理してみたが、ちょっと自信がない・・・。ちゃんと理解するには、おそらく当時の時代背景を把握しておく必要があるのだろう。

できる範囲ではあるが、私なりにまとめた結果を書き留めてみることにした。

1933年:陸軍による突然の土地買収

満州事変の勃発により、航空機の乗員が大量に必要となった。そのため、養成学校の設立が急務となり、陸軍から突如土地買収の話を持ち掛けられた。

対象は東金子村、金子村、元狭山村、宮寺村の4ヶ村にまたがるエリアで、敷地面積は101ヘクタールであった。

しかし、あまりにも突然のことで、地元住民はその真偽を疑ったほどだったようだ。

1933年7月19日の午後に連絡を受け、翌日には買収交渉が開始され、21日には「陸軍指定の価格を以って之に応じ即時決定すること」という決定が下された。

当時の飛行場建設予定地は山林と畑地だったが、不景気だったことや農閑期を利用して、近隣住民の労働力を投入したことにより、急ピッチで工事は進んでいった。

1934年:所沢陸軍飛行学校の分飛行場として開設

1934年11月29日、当時の陸相である林銑十郎氏を迎え開場式が挙行された。すでに運用されていた「所沢陸軍飛行学校の飛行訓練場」という位置づけである。

今を生きる私にとって、滑走路といえば舗装された道をイメージしてしまう。しかし、実際の狭山飛行場は凸凹だらけの地面で、見た目は原っぱだったとのこと。敷地を囲う壁や柵もなかった。

当時の飛行機は軽かったため、凸凹草原でも飛行場としては十分機能していたらしい。ただ、着陸時に飛行機がひっくり返ることもよくあり、整備士たちがかけつけて元に戻していた。

飛行場の大きさはこの時点で縦1030m、横1140mだった。通常の飛行場は、離着陸エリアを確保して明確に区別するので、縦長の土地を必要とする。

だが、狭山飛行場は訓練用の施設だったため正方形に近い形をしており、全面を離着陸に使用していた。

1937年:1回目の拡大工事

1937年9月、飛行場の拡大工事についての協議が開かれ、北側と西側に100mずつ拡張されて周囲に道路も整備された。(200mずつという情報もあった)

作業に参加した人の賃金は、5時から17時までの12時間で50銭、運搬用リヤカーを持参すると55銭だった。

突然の土地買収で困った住民もいた反面、開墾や土地拡大、飛行場内での仕事など、地元経済の活性化にもなっていた。

飛行場の従業員として採用されれば軍隊扱いとなるため、煙草が安く買えるなんてこともあったらしい。

1938年:豊岡陸軍航空士官学校の分教場になる

1937年に所沢陸軍飛行学校は廃止となり、そこにあった陸軍航空士官学校は移転され、豊岡陸軍航空士官学校(現・入間基地)として開設。

所沢陸軍飛行学校の分飛行場だった狭山飛行場も、豊岡陸軍航空士官学校の分教場に切り替わった。

1940年:2回目の拡大工事

2回目の拡大工事の資料は残っておらず、その詳細は記録として確認できていない。地元民への聞き込みにより、南と東へ200mほどの拡張だった推測されている。

南東部にみられる暗緑された排水溝は、この時の工事により設置された。開場時101ヘクタールだった敷地は、最終的に237ヘクタールまで拡張され、2倍以上の広さとなった。

1946年:戦後の食糧難・復員軍人対策として開墾

戦争が終結した後、日本は深刻な食糧不足に直面した。そこで、全国的な食料増産を目的に農地開拓が推進された。

候補地としては広い平坦な台地が良いとされ、飛行場や軍需工事などが対象になった。その結果狭山飛行場は、開墾を目的に復員軍人の入植者に貸与されることとなる。

また、金子村から9世帯、宮寺村から6世帯の入植者を迎え入れ、狭山開拓団が結成され開墾が進められた。途中で開墾を断念するものが出るほど苦労したようだが、1947年には終了して記念碑が建てられた。

 

開墾記念碑の記事はコチラ

入間市にあった「陸軍航空士官学校狭山飛行場」の遺跡を探してみた

 

まとめ

所沢陸軍飛行学校、所沢陸軍航空士官学校、豊岡陸軍航空士官学校、陸軍航空士官学校狭山飛行場など、似たような名前の施設が複数出てきて、正しく理解するのに苦労した。(合ってるよね・・・?)

わずか十数年の間にこんなにも状況が変化するということは、当時の日本は戦争で大変な状況だったことが窺える。

 

余談ではあるが、私の祖父は狭山飛行場跡地に茶畑を所有していた。当時の祖父の年齢を考えると、土地の取得は曽祖父より前の世代だと考えられる。

我が家のご先祖様は、狭山飛行場を造り、そこで働き、戦後は開墾し、農業を営んでいたのかもしれない。

 

参考サイト・書籍など

  • 入間市博物館紀要 第10号
  • 入間市史 通史編
  • 縄竹いまむかし

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