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入間市にあった「陸軍航空士官学校狭山飛行場」の歴史と現在の様子

1934~1946年頃のわずか十数年の間、現在の埼玉県入間市エリアには飛行場があった。その名は「陸軍航空士官学校狭山飛行場」である。現在地でいうと冒頭の地図の色塗り部分。中村屋の工場~武蔵工業団地あたりの区画となる。

この記事を書くにあたり狭山飛行場の情報を集めていると、生前の祖父(大正生まれ)があのエリアを「飛行場」と呼んでいたのをふと思い出した。今を生きる私には飛行場の片鱗も見えていなかったが、祖父の青春時代は狭山飛行場とともにあったのうだろう。

今回飛行場の跡地を調べてみたら、今まで気が付かなかった痕跡がいくつも見つかって驚いた。地元なのに知らないことはまだまだありそうである。

空中写真で当時~現在の比較

まず最初に、狭山飛行場があった当時~現在までの姿を、空中写真で確認してみる。地図・空中写真閲覧サービスから写真を探してみた。

1944年9月24日

終戦の約1年前の写真。ハッキリとわかりやすい四角いエリアが確認できる。ここが狭山飛行場である。東西は約1.8km、南北は約1.4kmの長方形の形をしている。

1956年3月9日

終戦から約10年後の写真。飛行場は1946年に開墾された。跡地は縦横に区画整理され、農地として活用された様子が確認できる。1947年には敷地内に狭山中学校が、1958年には狭山小学校が開校している。

1996年5月10日

少しアップで撮影された写真。右側の約30%ほどは建物でびっしりと埋め尽くされている。1966年ごろに造成された武蔵工業団地だ。中央部にはまだ農地が残されている。

2019年6月17日

農地として残っていた中央部分は住宅地に変わっている。現在は左側にわずかな農地を残すのみで、80%ほどが建物になっている。

町並みはすっかり変わってしまったが、空中写真で確認すると当時の飛行場がどこにあったのかはハッキリとわかる。

現在にも残っている当時の遺物

狭山飛行場が開墾されてから70年以上が経過した。今でも残っている当時の遺物を探してみた。

境界標(石杭)

中村屋南側の道路を挟んで向かいに、当時の境界を示すであろう石杭が残っている。石は所々削れているが「陸軍」の文字は今でも読み取れる。

この道路沿いにもう1つ、「陸」の文字だけ残った石杭があるらしい。だが、今回は見つけられなかった。また時間のある時に探索してみることとする。

排水溝?

狭山飛行場跡の右下(南東)の角部分。飛行場の外枠に沿って作られた溝らしきものを、石板でふさいだ形跡がある。かなり長い範囲に及び、確認できただけで950mほどあった。

何かの基礎①?

何らかの基礎と思われる四角いコンクリートの塊が2個確認できる。エンジン試験台の基礎?

何かの基礎②?

地面から突き出すような形のコンクリートが2個確認できる。飛行訓練塔の基礎?

配管?

狭山飛行場跡の左上(北西)の角部分。古びた配管がゴロゴロと置かれている。

狭山開墾記念碑

終戦後まもなく、狭山飛行場は開墾された。開墾が完了した際の記念碑。

途切れてしまった日光脇往還

狭山飛行場が建設される前、日光脇往還という道が通ってた。八王子千人同心が日光東照宮で仕事をするために往復した道である。

次の写真は、1944年の飛行場の右下部分を拡大したものだ。

わずかな道の名残

道は途切れてしまっているが、わずかな名残が残っている。道の上に飛行場を建設したことが確認できる。

次の写真は、2019年の飛行場跡の右下部分を拡大したものだ。

道の完全な消失

道の名残は完全になくなっている。

まとめ

祖父が飛行場と呼んでいたエリア、子供の頃はなんで飛行場なのかわからなかったが、今回調べてみてよくわかった。

今でも当時の遺物はいくつか確認できるが、何といっても空中写真で見た時に区画がそのまま残っているのには驚いた。

他の方の記事を拝見したところ、富士ボウル駐車場の裏に無蓋掩体壕の跡が残っているとのことだった。しかし、今は開発のため工事中となっており、その痕跡は確認できなかった。

歴史探索をするなら、早い方がいいと学んだ。

 

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